時は2020年3月。
ここから世の中はコロナウィルスの蔓延に苦しむことになる。
私の仕事も忙しくなるとともに、コロナを警戒して、同じ業務をする社員同士が密にならないように執務エリアが分断されたり、
極力会話はせずにチャットでやり取りをするようにお達しが出ていた。
まあ、入社して1年にもなるのに未だ同僚と打ち解けられず、もともと会話はほとんど皆無だったが、それに拍車をかけた形だ。
前の職場との違い
前の職場では新卒同士はもちろん、社内が常に上下関係なく仕事もしつつ、雑談を時にはする明るい雰囲気だった。
実をいうと私は前職でも2年目の時(2011年ころ)に、激務でうつ病と診断され、一度休職している。
このときは人間関係というよりは、学生から社会人になり、環境、ルール、新しい社会常識に、慣れない仕事の仕事量に苦しんで倒れた形だった。
とはいえ、半年かけて治療して復帰後も職場の人間関係には恵まれた。
元うつ病患者ではなく、同じ仲間として接していただき、仕事量もセーブしていただけた。
分からないところも一から遠慮なく教えてくれる先輩ばかりだった。
だから仕事もどんどん覚え着実に成長し、また、倒れたのが社会人2年目と早い段階にあったこともあり、
後輩が入ってきても、先輩としていろんなアドバイスやヘルプに入ることもできた。
経験も積んで自分で業務の調整もできるようになり、役職、といってもメンターのようなものも与えられ、
途中から入ってくる中途社員、新卒の子たちともほぼ全員会話ができるほど、雰囲気がよかった。
女性の多い職場でもあったので、男性メンバーだけで毎日お昼を共にするのも当たり前の光景だった。
誰かが仕事で困っていたら自然と助けが入る、そんないい職場環境だった。
だからであろう。
退職の際には多くの後輩たちが私の退職を残念がり、
私のために全員から一つではなく、慕ってくれていた後輩一人一人が各々手紙をしたためて、かつ一部の子は惜別の品まで個別に用意してくれた。
こんなにも温かい環境に自分はいたんだな。
けど今は人間関係より、激務よりも、子供と接する時間を優先したい。
それが転職を決めた理由だった。
もちろんそれらの手紙や惜別の品は今も大切に保管し、使ってもいる。
現在の職場では
仕事は日々難しいこと、初めての仕事ばかりだが、社内サーバー内にある過去の他の類似業務を参考にしながら基本的にはなんとかこなしていた。
だけど、徐々に量が増えていき、ミスもちらほら出始める。
その度先輩に指摘され、顧客に指摘され、謝りつつ改善策を検討して、業務も学びなおし…
を繰り返していた。
たった一人で。
もちろん、最低限のフォローはしてもらえるが、前職のような雑談をするような雰囲気はなく、各々が各自自分の業務に没頭している。
どちらかといえば静かな環境だった。
仕事量も増えるので残業も増えていく。
入社当初18時に退勤できていたのがウソのように、20時、21時、遅いと22時退勤も増えていった。
ようやく退勤
この頃から退社後の駅までの15分の時間は、翌日の仕事をどんな風にこなすか、その日あったミスの反省ばかりを考えていた。
さらにコロナ禍にあって、電車の中では密にならないよう感染対策の意識のストレスも。
自宅にウイルスを持ち込むわけにはいかない。
娘にだけは移してはならない。
仕事と家庭で余計なストレスを徐々に蓄積していた。
代わらず電車内ではケータイゲームはするものの楽しいとは思わず、娘の写真のエンドレススクロールも今思えばしなくなっていた。
何も考えずにゲームに没頭して何かから無意識に逃げていたのだと思う。
そして帰宅
家に帰るともう23時というのはざら。
当たり前だが娘も妻ももう寝てしまっている。
かわいい寝顔を眺めつつ、妻にもほんとに申し訳なかった。
夜に私がいない分、夕食、お風呂、寝かしつけ、洗濯など全て夕方以降はワンオペになっているからだ。
前職では深夜残業が多かった。
やめる直前までは22時退勤は当たり前。
特には終電を逃すこともあった。
先ほども書いたが、これが転職を決めたきっかけだった。
第1話でも書いたが、先輩パパの同僚の話では、平日ほとんど子供と会話できないために、パパと認識されず、
「休日だけいるおじさん」
と思われてしまっているという話も聞いてショックをうけたこともある。
そう言い聞かせて、日々を過ごしていた。
第4話へ続く
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